10月22日の岩手日報「交差点」にこんな記事が載っていました。
以下全文を紹介します。
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「交差点」
手前みそという言葉がある。
ネガティブな意味で使われることが多いが、食の要点をよく押さえた言葉でもある。
万人の舌にかなう至高な昧などそもそもない。
味はすべて個人のものである。
味覚というものは個性的であるが、一方で柔軟性を持っているから、ある程度の範囲内で万人に許容される味というものはあるだろう。
でも誤解してはいけない。舌の良しあしは敏感か鈍感か、つまり許容限度が広いか狭いかの差にすぎない。
料理評論家が「あの店こそ究極の味」などとけん伝したところで結局は個人の好みである。
そんなものに踊らされるのはばかげたことだ。
個人の好みだからこそ、味覚とは奥が深く面白いのである。
手前みそ、つまり自らが学習した味こそ一番というのは当然のことで、それが至高であるならば、他人がうまいと言うものに飛びつく必要などない。
名店と称する店に行列をつくる人々は、味を求めているのではない。
「おいしい」を幻想する集団から疎外されたくないだけの話で、そうした人に限って案外鈍感なのだ。「おいしい」は自分の舌が覚え、鍛えている、ただそれだけの話である。
ミシュラン。
確かに伝統はあるだろうが、要はタイヤ会社の道楽なのだから、それに一喜一憂するのは料理人の名折れ、ぐらいのことを言ってほしいものだ。
ミシュランごときに載るを潔しとしない、そんな昧を自らの舌で探し出せたらそれこそ至福である。
相当にへそ曲がりの言い分ですが。
(博)
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この記事を読んで思わず
人の味覚はまさに千差万別。
他人がうまいといってもどうも自分の味覚に合わない。この味が?
その人の育った環境、生活環境、趣味、食習慣、年齢など一律に考えられない事が個人の味覚を決定する要素として存在します。
美味しいと評判なものが確かに自分の嗜好に一致する場合もあります。
しかし、自らが美味しいと思うものを自らの生活空間の中で見つけ、味わう事のほうがやはり自分のスタイルに合っているのではないでしょうか。
他人に流されない経験に裏づけされた哲学を持つ事は、人生を豊かに過ごす一つの選択肢。私には「ミシュラン」なんてタイヤ以外は遠い世界の話なのかも知れませんが (^_^)/~
辛口記事をさらっと載せるところが岩手日報のいいところですね。